2022年-2023年建筑工程管理行业文档 齐鲁斌创作01■ 白酒をのの字にのの字重ね注ぐ しろざけをののじにののじかさねつぐ ひろみ:雛祭りの白酒を飲んで酔いが回ったところ身体が揺れているので、注ぐ手元がのの字に・・・のの字は照れているとき(お見合いの席)などで使われますが、ほんわかとした情景が浮かびますよし女:白酒は少し粘りがあって、注ぎ終えたときのの字になっているのが、言われて見て納得できますねすくなめなのでもう少し注ぎ足した器の中の様子リズム良く、良く見てある句です重ね注ぐの言葉もすぐにはでない良い言葉で 遅足:のの字に注ぐというのは、どういうことなでしょうか?酔ってのの字になるのか、注いだ後、のの字になるのか?文字通り読めば、注ぎ方のことと読めますが遊んで注いでいるのか?作法としてそういう注ぎ方があるのか? 重ね注ぐですから、飲み手は請求しているみたいですねあるいは注ぎ手が飲の飲のといっているのかもこの二人は年齢はいくつ位なんでしょう?などなど、楽しんで読みました とろうち:白酒を実際についだことがないので、この句はよくわかりませんでしたでもよし女さんがおっしゃっているように、白酒というものが少しとろっとしているものなら、注ぐ時にのの字を書くように注ぎ口を動かすかもしれませんね。
「重ね注ぐ」というのも、一人の杯に何回も注ぐということなのか、たくさんのお客に注いで回っているのか、ちょっと分かりかねますうむむ? 敦風:「のの字」「のの字」というのは古くからある謂いであって、通常は、女性が恥じらってもじもじしているような初々しい様子を云う表現であると思います見合いの席などで、娘さんが畳の縁などに「の」の字を何度も書いて、というそういう様子の文字通りの描写ですねこの句は、雛祭りの日、楚々とした女性が白酒を勧められて、恥じらいながら、じゃ一杯だけと受け、それを飲むとまた勧められてという風に、重ねて注がれているさまを詠んだものでしょう大口でがぶ飲みするような女性にはおよそ縁のない艶なる句であろうと思います私は、こういう句を読むと、さいきんは、若い娘さんというよりは、どちらかと云うと自分の年に近い方に受け取るようになって来ました女性の初々しさは年なんかではないと思うとります「のの字にのの字重ね注ぐ」これ以上ない、絶妙の表現ですねそう思います 光晴:私は、のの字に注ぐさまは、何と言うか知りませんが、蕎麦湯を入れてあるような木の器から杯へ零れないように注ぐ情景と取りました縦にのの字を書く感じです。
大勢の客人、それも艶やかな女性達を前にうれしそうにゆったりとした時間の中にいる師を感じました みのる:由緒ある場所で白酒が振舞われているのでしょうかぐい呑みのようなのではなくて、小皿のような杯に注がれているのだと思います三々九度の杯に神酒を注ぐとき、巫女さんが3回ほどしゃくりながら注ぎますねそれと同じように、のの字を描くように2度、3度と恭しく注いでいる所作を詠まれたと思いますよし女解のように、白酒は少し粘りがあることを考えると、とても具体的に見えてきます白酒を注いでいる動作を見て、「のの字を書いているようだ」と感じたのが、作者の個性であり、この句の手柄です具体的な写生の確かさを学びましょう02■ 啓蟄にまず小手出しぬもぐらもち けいちつにまずこてだしぬもぐらもち遅足:懐かしい言葉、もぐらもち小さく盛り上がった土を最初に見た時は、とても不思議だったことを思い出します母から、あれはもぐらの穴と教えられて、さらに興味を持ちましたもぐらって、どんな生き物だろうか? 図鑑やテレビでその生態を学びましたが、大きくなって死んだもぐらを見て、その小ささに少しガッカリしたものです句は、もぐらもちが生活の中にちゃんと定位置を占めている時代の、春を待つ気持ちが伝わってきます。
もぐらも人も生きたもぐらは、まだ見たことがありませんもう見られないかもひろみ:土の中で生活するもぐらが春の日に穴から出てくるところとても光を感じますまるで自分自身がモグラになったような気持ちになりますもっと出てきてごらんと励まされているようにも感じましたとろうち:すずらんさんの絵を思い出しましたもぐらもちを見かけて、はや啓蟄と見えてもぐらもひょと顔を出したか?と思ったのでしょうかいや、まだ啓蟄とは言え寒いから、顔まではいかず小手先だけ出してみたのかな?かわいらしい句ですね敦風:啓蟄の頃、ちょっと小手を出したもぐらを見たなんとも云えぬ面白味のある句のように思います啓蟄というのは、ふつうには虫が出てくる状況や、あるいは出て来た虫どもを指す言い方だと思うが、そこにもぐらを持って来たそして「まず小手出しぬ」と描くまさに春来たりぬですなお、もぐらはふつうは冬眠をするわけではないけれど、冬のあいだは動きが鈍くなるのだそうであり、寒冷地に行くと冬眠状態になるのだそうです光晴:数日前、我が家の前の土手にもぐらの盛り土を見ましたしばらく句にならぬかと考えましたが無理でしたもちろん小手は見えませんでしたが、あの情景は確かにこの句の情景でした。
唸りっぱなしでコメントどころではありませんでした一尾:冬ごもりしていた虫が動き出したさあ出番ともぐらは土を押し上げ掘り進む浅いところでは時おり手ならぬ足が突きでるまだまだこの時期は寒いから、小さな虫の動きも鈍く見落としがちしかしもぐらが手を突き出したのでは、どなたも地下の動きを実感することでしょう「まず小手」が本格的な春の訪れを知らせるキーポイントと読みました言葉としての啓蟄を具体的な動きで示された春の調べの句ですきみこ:田の畦に、もこもこと、土が盛り上がった様になっていて、モグラが歩いたあとが有ります田植えの時水が漏れるので、百姓さんは困りますそこで、里の役場では、もぐらを持っていくと、お金がもらえるそうです私もモグラを見た事がありますのんびりとした顔をしていますが、逃げるのは、とっても早く、なかなか捕まえる事はできません先生も、小手を出したもぐらを、一瞬見られたのではないでしょうかみのる:モグラが土の中から出ようとして、頭を出す前にまず手を出して、用心深くあたりの様子を窺っている所作が見えてきますとてもユーモラスな句ですね作者は、モグラの穴のことは触れていませんでも、啓蟄と言う季語の働きによって、観賞者には、モグラの穴が見えてきます。
これが季語の働きなのです03■ クラークの右手にある意思東風つよき くらーくのめてにあるいしこちつよきほとり:札幌の羊ヶ丘展望台にあるクラーク博士像ですね横に大きく開いた右腕指先までびしっと力強さが感じられます「右手(めて、と読むのですね)にある意思」という切れのよい表現、憧れます春を告げる強い東風が吹いているのが、高い理想と強い信念をも象徴していると思いましたよし女:ほとりさんのかっちりした鑑賞のとおりだと思います「意志」という抽象的な言葉が、「クラークの右手」という万人共通の具体的な景に象徴され、さらに「東風つよき」で、クラーク博士の言葉まで聞こえてくるようですとろうち:以前、みのるさんが「季語」というものをよく考えよというようなことをおっしゃっていましたが、まさにこの句はそれを考えさせられました「青年よ、大志を抱け」と言ったクラーク博士を語るのに「東風つよき」は、けして他の季語には置き換えられません博士が示した強い意志、そして未来に開けている展望吹く風はおだやかなものではなく、そして身を刺す冷たい北風でもないすごいなぁ脱帽ですこうでなければいけないのですねひろみ:意思は見えないものですが、こうして句になってみると違和感が無く、こういうことまで俳句で表現できるんだなあと思いました。
敦風:皆さんの鑑賞の通りだと思いますよく見ると、羊が丘公園のクラーク像は、コートの右裾がひるがえっていますねこれはこうした像としては普通のことか珍しいことかよくは分かりませんが、この句と照らし合わせてみたとき、私はこのことが非常に面白いような気がします作者が像の前に立ったとき、実際に強い東風が吹いたのでしょうこの時、ひるがえるクラークのコートそして、やや上方に何かを指し示すように伸ばした右手ここに、青年たちに教えたクラークの決然たる意思が見える教育に身を捧げた偉人の心情が力強く迫って来ますね「右手にある意思」がやはり命ある表現そして、「東風つよき」という形容詞の連体形止めも生き々々ときいていると思います《参考》: 羊が丘公園のクラーク像http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/stat/Hokkaidou/H2000/Crark2.htmみのる:Boys,be ambitous!札幌農学校に赴任したクラークは、卒業してゆく青年達にこの言葉を贈りました東風という季語は、その季節を意味していますそして、「強き」は、クラークの右手(めて)にある強い意思を示しています。
Boys,be ambitous!のあとに続く言葉については、諸説の伝承があって定かではありませんでも、クラークはキリスト者でしたから、Boys ,be ambitious in Christ !(青年たちよ大志を抱け、キリストにありて)といったのだと思いますつまり、野心をもて・・という言う意味ではなく、キリスト教の信仰に堅くたって、大きな志をもて・・と言ったのです聖書の言葉を少し引用しますと、以下のよなものがあります「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださいます」(ピリピ2:13)「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」 (ピリピ 4.13)クラークが青年達に伝えたかったのは、「in Christ !」という強い意志であったと、ぼくは思います北大キャンパスにあるクラーク像は胸像なので、敦風解のとおり、羊が丘公園のクラーク像を詠まれたと思います右手は、真上ではなく水平に近いですが、はるかなる天上のキリストをさしているようにもみえるのはぼくだけでしょうか参考記事Boys,be ambitous! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,…<青年よ、大志をもて。
それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってもならない…>「教育大辞書 増補改版」同文館 1925年刊 『クラーク』の項訳は朝日新聞1964・3・16「天声人語」よりこれと同じ英文は次の資料にも掲載されています「教育学辞典」岩波書店 1936年刊 『クラーク』の項「明治初期教育思想の研究」稲富栄次郎著 創元社 1944年刊但し、これらの真偽については諸説あるようですひばりが丘グレイス教会牧師 重見通典先生のメッセージの一部を転載しておきますBoys ,be ambitious in Christ ! 「少年よキリストにあって大志を抱け!」これは有名な、クラーク博士の言葉です一般には「少年よ大志を抱け」とだけ、キリストが削られて伝わりましたが、本当はこういわれたのです江戸から明治という国の大転換の時代に生きようとする青年に対し、札幌農学校の校長としてアメリカからやってきたクラーク博士のハートは直接教える生徒にだけでなく、日本中の青年に向かって、伝えたい熱き希望のメッセージだったことでしょう04■ 春山の噴煙天の鉾となる はるやまのふんえんてんのほことなるほとり:火山から、もくもくとわき上がっている噴煙。
春山なので、明るい緑色の山肌や、やはり明るい空の色も見えてきます山から上がる噴煙は山を覆うほど大きく、また天を衝くほどの勢いがある山、噴煙、天と目線がどんどん上に広がり、誠にダイナミックな句と思いましたとろうち:もくもくと噴煙を上げている山、桜島ですかねほとりさんの仰っているように明るい山肌、空の色まで見えてくるようですね「鉾」という言葉から、なんとなく、神代の御代にそのままタイムスリップしていくようにも感じられます「春山」という明るい、生命力に満ちた、それでいてのんびりした風景と、天を突く荒々しい噴煙の見事な対比それがなんとなく神話のイメージと重なりますきみこ:暖かな風の無い日の噴煙は、真っ直ぐにスーと伸びていて、天にも届くかのようで雄大な情景が、見えてきて「天の鉾」という言葉にぴったりのように思いました光晴:すーと読んでしまえば、長閑な雄大な景を感じるが、なんで春山の季語が動かないのかが判りません鉾は障害をおかして、無理につきかかる意を含む字ということでますます判らない教えてくださいひろみ:私も光晴さんと同じに鉾が気になりました姿は春の山の優しい趣ではあるが、地下ではマグマ燃え滾る、活動する山であるという、自然の偉大さを感じました。
とろうち:私がこの句を読んで神代を想像したというのは、この「鉾」という字からですおそらく、この句は高千穂峰に行った時のものだと思います高千穂の峰より、噴煙を上げる桜島を見て詠んだものではないでしょうか高千穂峰の山頂には「天の逆鉾」というものがありますまた「天の逆鉾」とは国生みの神話で、イザナギ・イザナミの神が日本の島々を作った時に使ったものですそうしたことを踏まえて、立ち上る噴煙を「天の鉾」に見立てたんだと思いますもちろん、実際に春の風景かもしれませんけれど国生みの神話、生命の誕生というイメージから、やはりここは「春の山」でなければならないのではないでしょうかこんなこと言って、実際高千穂には行ったことがないんですけどね光晴:なるほど!よく解りました天の鉾=天の逆鉾なのですねこれなら確かに季語も動かず、国生みの神話のすばらしい情景が広がりますよし女:身近な景でしか想像できませんが、九州の阿蘇山が浮かびました吹き上げた噴煙が鉾のような形になっているという解釈では駄目でしようかその景を目にしたときは、春山の季節夏山、秋の山、冬の山と想像したとき、噴煙が鉾となった形に対して春山が最もふさわしいという気もするのですが。
みのる:火山の噴煙が天高くあがるさまは秋空が最も相応しいと思うのが常識ですねでも先生は春山を持ってこられましたはたして季語動くでしょうかところでみなさんも感じられたように意外と春山の季語が効いていますよねぼくも、とろうち解のように春山に復活の命を感じました冬山眠るが如し春山笑うが如し・・と言われるように眠っているような冬の山容が、日に日に春山の雰囲気に変化していく様子は、生命の尊厳のようなものを感じますまた、冬の間は鉛色の雲に覆われて噴煙と曇空とのけじめも定かではないことが多いですが、春の明るい空にもくもくと吹き上がる噴煙のようすは、活火山の命の証しのように見えたのです「鉾となる」という措辞に深い意味はないと思います風のない穏やかな春の日の噴煙は、さほど横へ広がらずに鉾のように尖っているんでしょうこのあたりも「春」の特徴と見ることが出来ます05■ ダンプカー転覆ごとに山笑ふ ダンプカーてんぷくごとにやまわらふひろみ:芽吹きの山を切り崩すトラックがひっくり返った人間の私利私欲の為に自然が失われていくということに対する警鐘なのでしょうかでも、季語の斡旋が「山笑ふ」なので、こぶしを振り上げて「断固、阻止!」というような感じではありません。
トラックが山を切り崩すということもある意味、自然であり、あるがままなんだなあというように感じましたほとり:この「転覆」が私には曲者ですひろみさんのように、文字通り、ひっくり返ったと解釈していいものか、わからないのです「ごとに」ってことは、「幾度も」ってことですよねダンプカーが荷台をもちあげては土砂を落とす様を、転覆と表現したとは読めないでしょうか春になって、山も工事が再開笑う山と働く人々、すべてが動き出す季節しかし、削り取られる山は笑うどころか泣く方が合っているし・・・お手上げですとろうち:これは、私も本当に分からないというか、ほとりさん同様「転覆」の解釈に悩みましたで、結論として「転覆」というのはやっぱり、ほとりさんの仰るように、荷台の上げ下げではないかと思いますただし山を切り崩しているのではなく、他の工事だと思いますダンプカーが何度も何度も砂利をおろしていく長い冬が終わり町に活気が満ちてきたのを「山笑ふ」としたんではないかと思うのですが・・・でも自分がこういう句を詠むんだったら、絶対「転覆」なんて言葉は使わないと思うなぜこの言葉を使ったんでしょうねよし女:この句を何回も反復しました。
仕事をしながら、お風呂の中でもで、単純に解釈しました少し離れた場所からの景ではと思ったのです道の起伏に沿って走るダンプカーの見え隠れするのが、転覆を繰り返しているように見えたことに下りの急坂ではそんなに見えますよねいわれて見るとときあたかも山笑う季節 一楽:土砂の積み下ろしに転覆は使わないと思います表現に無理、飛躍があります但し句は文字通りの意味しか理解できません登美子:私もですが、なかなか皆さんも理解が難しいようですね私は単純にダンプカーが転覆する時のどかっと大きな音をあげている様子山笑う程度を人間世界を揶揄しながら表したのではないでしょうかとろうち:転覆=船、車両などがひっくりかえることひっくりかえすことふと思ったんですけど、ダンプカーを真後ろから見ていたら、荷台がグイーンと上がっていくと、ダンプカー自体がひっくり返るように見えないでしょうか昨日から気になってたまらない・・・ひろみ:たしかに転覆とはひっくり返る意味なんですが、「ごとに」に最初悩んだんですよそうそう何回もトラックがひっくり返っていたら大変だし・・・よし女さんの見方がしっくりいくような気がしてきました一尾:昨年の秋から始まった近在のほ場整理では、里山を削りダンプカーで土砂を低地の田圃に運んでいた。
これもやっとこの年度末で一段落何度もダンプカーが行きつ戻りつ同じ動作を繰り返していたこの句に接した時、積み荷の土砂を放り出す動作を転覆と詠めば、この情景がピッタリ山は眠っている内に一山削り取られたが、周囲の里山は芽吹きが盛んであるそろそろ隣接のほ場整理も進むそうだから、次は自分の番かと笑ってはいられない里山風景は淋しいみのる:確かにちょっと難しいですねダンプカーということなので、山裾の造成地の様子ではないでしょうか宅地造成などでは、工事現場から土の出し入れをすると工事原価が上がるので、たいていは「切り盛りチャラ」になるように設計しますつまり、山の部分を削って、谷の部分へ埋めるのですどの程度まで工事が進んでいるかによって状況は違いますが、土砂を積み込んでは移動し、谷へ降ろします造成が進むまでは現場の道路は地道の状態ですから、春泥でぬかるんでいることも想像できますねよし女解のように現場から少し離れたところから、工事の様子を眺めていると、まさに、ダンプカーが何度も転覆するさまに見えるのだと思います冬の間は、風や凍てではかどらなかった工事が、温かくなって急ピッチで進んでいるというような活気もありますね。
秀句を観賞するポイントは、詠み込まれている「季感」をどう見抜くかです逆にいうと、季感を捉えた写生は俳句ですが、そうでない写生(季語動く)はただの報告ということになります一楽:みのる先生の解説をみて、かかった霧が晴れるように情景が見えてきました春の現場を車体を大きく揺らして走るダンプカーが見えます「季感を見抜く」鋭く含蓄のある言葉です遅足:皆さんのコメントを興味深く読んでいます意味は大体分かってきました新しい疑問が沸いてきました作者は一体、何歳だったのかな?まるで子供のような句だと思うのですが・・・読んだ人に、どう?と、いたずらっぽく笑っている顔も見えるみたいです06■ 春の水獺の潜けば黄となんぬ はるのみずをそのかづけばきとなんぬひろみ:カワウソが餌を取るために、まだ水量の増えていないトロンとした川に潜り川面が黄色に濁った、というのどかな風景川の音が聞こえない不思議な気がしましたとろうち:かわうそを見たことがないと思ったら、それもそのハズで、日本では高知県西部以外では絶滅してたんですね特別天然記念物だったとはかわうそが水の中に入ったら、光線の加減か、体が黄色に見えたと解釈しましたひろみさんと同じく、とろりとした水音の聞こえない川の中の、ゆらりとしたかわうそを想像しました。
一楽:獺、今回漢和辞典でかわうその事とはじめて知りましたダツと読むのでしょうか?潜の読み方が分りません体が黄色になったと云う事でしょうが、なりぬではなくでなんぬと云うのがすごいですね一尾:をそ、かづく、なんぬ どれも日頃使わない用語であり、新鮮でしたカワウソは動物園で見たかなあくらいの記憶、ましてや春の水とのかかわりなぞ考えも及びません師は古き良き環境時代にカワウソを見かけ、しかも偶然のチャンスを的確に写生していらっしゃるまさに一瞬を切るのですね水も温み、しかも豊か、ふっくらとしたカワウソがごろりと川に入れば底の泥をかき回し水は黄色に変わった成獣は65~80cmくらい、太くて長い尻尾が特徴いまや動物園でしかお目にかかれないようですが、調節された春の水に潜るカワウソを動物園に出かけ見る価値はありそうですよし女:「春の水」と、「なんぬ」で逡巡していましたいつ頃どこで獺を見られたのだろうと思いました何故春の川でなく春の水なのでしょうもしかしたら、動物園の檻の水の中へ潜ったのだろうかとも思いましたおおよその見当はつくものの「なんぬ」の文法がはっきりしないので、口の中がもごもごして、飲み込めずにいます。
黄の色の観察は細やかだと思うのですがみのる:・・・なんぬは俳句ではよく使われる古語です「・・・なりぬ」と同意だと思います例の古語辞典には次のように出ています 「ぬ」(助詞)・・・た・・・てしまった最近では動物園でしか見られないかもしれませんね早春の季語に、「獺の祭」(をそのまつり)と言う季語があります魚を獲ろうと獺が潜るたびに、そのあたりの水だけが黄色く濁るのですね川全体がにごるのではないので、春の水とされたと思います07■ ポリバケツ粒そろひをる蜆かな ポリバケツつぶそろひをるしじみかなほとり:一読して、何とも言えない愛嬌を感じました「ポリバケツ」に親しみを覚えますね私はスーパーで蜆にお目にかかる程度ですが、察するに、朝とれた蜆がポリバケツにいっぱい入っている日の光と水と艶やかな蜆貝明るさを感じるのは、蜆が春の季語だからでしょうか「粒そろひをる」で、何だか小さな蜆たちが集まっておしゃべりしているようにも思えてきました由根:上5の「ポリバケツ」で青の強調をかんじます蜆をとる湖の鉛色とそこからあがった蜆の黒の粒が、青のポリバケツの中に入っている光景としてうかぶからですまた、中7「粒そろひをる」としたところにバケツの中をのぞいて見ている動きと、きょうの成果についての充足・満足を感じます。
そして大きさそろえたことが、漁師のしたことでなく蜆同士の競い合いと協調の結果とみると「めだかの学校」を彷彿させ、なか睦まじく微笑ましく思われてきますひろみ:最初一読、この句は絶対選句出来ない句だと思いましたでも、秀句なんだからと思い、何度か読み返しましたポリバケツ「大笊」に粒そろひをる・・・としたい様なところ、あっけなく、ポリバケツこれが見たまま、そのままの虚飾なし、ということでしょうか・・・と思っても、いざ自分が作るとなると、無い知識を総動員させてそれらしい句を作ろうとしちゃうんです青畝師の写生の心を感じましたよし女:ちょっと行って誰かが掘ってきた蜆或いは、裾分けのものかかなり大きい蜆それを、ポリバケツの中で泥吐きをさせるため、何回か水を替え、きれいになった「粒揃ひをる」で、舌を出し切った蜆が想像され、厨口で次の出番を待っているこのお句、私にはそんなイメージになりますポリバケツなど、おおよそ詩語には似合わないものが、生きていると思いましたとろうち:ポリバケツというとなんとなく安っぽいイメージがありますもし自分が使うとしたら、せめてバケツとしたかもしれませんでも「ポリバケツ」としたことで、この蜆の主と作者との距離は、とても近しいものに感じられます。
言葉というのは不思議ですねみのる:バケツに入っていると言うのですから、かなりたくさんの蜆です多分、漁港か魚市場あたりを吟行されて、興味を持ってバケツの中を覗かれたのでしょう「粒そろひをる」が具体的で上手いですね08■ 吾を呼ぶは大石狩のどの雲雀 あをよぶはおおいしかりのどのひばりよし女:雲雀が一斉に鳴くときは賑やかですよねそれが石狩平野となると、囀る雲雀の数も風景も、大景にひろがります私を呼んでいるのは、この中のどの雲雀だろうと解釈しました石狩川が流れ、雄大に広がった場所で多くの雲雀との出会い青畝師の感動がしっかり伝わってきます登美子:もう雲雀はたくさん鳴いています一度に何羽も空に上がり、ここそこで鳴きますそれが石狩平野という、広い、見渡し良い所では尚更のことでしょうね余程目の良い人でないと無理でしょうそういうことは探鳥会の時に任せて、きっとその中の一羽が自分を呼んで鳴いてくれているという期待感は詩的ですねとろうち:例によって例のごとく、私はヒバリを知りませんでもこの句の光景ははっきりと見える気がします空と大地の広がる、雄大な風景前句がポリバケツの中の蜆だったのに、なんという、この世界の差でしょうか。
詩人の世界は広いなあみのる:句意は皆さんの観賞のとおりですねこの作品を鑑賞していて、青畝先生がよく言われた、「物心一如」という言葉を思い出しました物心一如というのは、荻原井泉水が講演のときに以下のように語ったとされて有名になりました>幾度も云ふやうに、俳句は物心一如のものであります>物を重くみたのは子規の写生主義であり、心を重くみたのは芭蕉の心境主義であります>俳句にはこの二タ筋がありますが、この二ツをしつかり見極め打ち出してこそ、真実の俳句なのでありますつまり、「物心一如」というのは対象である自然とそれを見ている我が一つの世界を形成していなければならないというのです理屈で理解するのは難しいですが、揚句は真理を教えているとぼくは思います09■ 飛燕こもごも大堰堤をま逆さま ひえんこもごもだいえんていをまさかさま よし女:当地ではもう飛燕を見かけます本当にスーイス―イと気持ちよさそうで、彼らが来ると元気がもらえて嬉しくなります飛んでいる燕がかわるがわる、大きな川か、つつみか、ダムへ、まっさかさまに突っ込んでいく様を活写されたのですね水面すれすれに落ちて、また、すーいと遠ざかるそんな繰り返しの景が浮かびます。
子育てを終えた燕たちの何万の大群が、葦叢へ集結して、夜のねぐら入りをする様子ともだぶり、楽しく鑑賞させていただきましたこもごもの言葉が素敵ですね遅足:定年を迎えたせいか、燕もサラリーマンに思えてきます会社人生、色々な人に出会いましたサラリーマンこもごもですそんななか、真っ逆さまに大堰堤に添って曲芸飛行をする同輩もいました私は平凡な飛行でした今は枝で一休みとろうち:ツバメの季節はまだまだ先ですが、この句はよく分かります高い空から急降下して、またそこからついっと急上昇まさに天地を縦横無尽という感じで、見ていてすきっとします「大堰堤をま逆さま」で、とてもスケールの大きい句だと思います 一尾:虫を捕らえて、急降下と思えば急上昇をくり返す燕の様が浮かびます大堰堤を挟んで湖面側かあるいは放水側かちょっと迷いましたよく観察したいところです落差のある放水側は「ま逆さま」の雰囲気にはあっているかなと思いましたかつて飛燕と言う名の旧陸軍の戦闘機がありましたみのる:実は「こもごも」というのは曖昧な言葉だと思っていたのですが、念のために広辞苑で調べてみて驚きましたこも‐ごも[副] (古くは清音) 互いに入れかわって。
また、入りまじってかわるがわる先生はちゃんと辞書を調べて言葉を使っておられるのだと感心しました10■ 横丁の春泥地獄灯をつらね よこちょうのしゅんでいじごくひをつらね 初凪:これは私にもよく判る景色です狭い横丁が春の泥だらけ何十年か前のことでしょうね今はどの路地も舗装が行き届いて泥道に難渋することはなくなりました夜になっても乾かない水溜まりを除けながら歩いていると、いくつもある水溜まりにそれぞれ家の灯が映っている春泥地獄とは大げさなようですが、的確な表現ですぴょんぴょんと水溜まりを除けながら帰宅する勤め人の姿が思われます身近にある現象を掬い取って句にすることのお手本の様な佳句であると思いました 登美子:初凪さんがうん十年前の様子とお書きになってをり、よく目に浮かんできます横丁とある所が庶民の日日の生活を水溜りの明かりに映している感じですちょっとした町の片隅に生きている人々の生活が目に見えるようですまた春泥は本当は綺麗なものではないのですが、語感が暖かく、たおやかな響きをもっています地獄と書いても全然大げさな感じをしないところが青畝師の素晴らしさなのでしょうねとろうち:「春泥地獄」とはよく言ったもので、本当にあれは困ったものですよね。
夜ともなればさらに水たまりの中に映る灯りが地獄の火のようにも見えたんでしょうかそれとも、単に春泥のどろどろを嘆いたものなんでしょうかいずれにせよ、ちょっと笑いを誘う句です 光晴:春泥地獄と言い、前句の、こもごもと言い、本当に師は、言葉の魔術師ですねともに現在でも使用する言葉ですが、俳句にはなかなか思いつかない言葉です 志乃:とろうちさんと同じ鑑賞をしました横丁とありますが、繁華街の裏酒場の通りだと、面白いですね昼見ればなんということもない泥のでこぼこが、灯に照らされることによって、明暗を強くし、おどろおどろしいまでの光景となったのでしょうねみのる:春泥に映りこんでいる横丁の町並みの灯がまるで地獄のようだ・・というのは面白い連想ですねぼくはそこまで気がつきませんでした俳句では、何かの究極の悪い状態を形容して、**地獄という言い方をします逆の意味で、**浄土という言い方も良く使います覚えておくと便利ですね揚句では、とてもひどい春泥が続いているんでしょうか、町の灯を頼みにしながら難儀して足の置き所を選んでいる人のすがたが見えてきます裾からげしてへっぴり腰で・・・横丁と言われるとその生活ぶりも連想されて親しみがありますね。
11■ 春耕の力を謝して十字切る しゅんこうのちからをしゃしてじゅうじきる とろうち:春になって、また畑仕事ができる体であることへの感謝また畑、大地への感謝もあるかもしれませんね自分が健康であること、それがなにより嬉しいし、生かされていることに感謝しなければなりませんね 初凪:年末の志乃さんの、晦日に畑に一礼する、という御句を思い出しました自然への感謝働けることへの感謝、これは宗教に関係なく持ちたい気持ちと思いますそれにしても春耕という季語は明るく労働と収穫への期待があふれた言葉ですね春耕の力が具体的でより訴える力が強いと思いました みのる:なぜ春耕なの?という疑問をもちませんでしたか秋耕では駄目なのでしょうか春耕ですから、越冬をして雪が解け、やがてまた新しい年の収穫のために田を打っているんですことしもまた健康が守られて働けることへの感謝なのですね十字を切るのですから、もちろんクリスチャンだと思います草は萌え、山は芽吹き、小鳥達は囀り、川音は高鳴り、万象が春の到来を賛美しているそんな復活の摂理にも感謝している気分がありますねですから、春耕という季語は動かないのです12■ 肩ぬぎぬそれより田打鍬高く かたぬぎぬそれよりたうちくわたかく 遅足:最近、鍬を持ちました。
家庭菜園です北風が強い日で、最初はセーターにジャンバーと厚着、でも、次第に汗ばんできますだんだん薄着になって、さあ、まだまだと、鍬を振り上げました最初は高く、すぐ肩までくらいです何度も一休みでした句は、ほんもののお百姓さんのことかな? 鍬を高く振り上げる姿が見えるようです意気が伝わってきます光晴:春の陽射、雲雀の声そして昔懐しいあの臭いが感じられます 一尾:機械化された農業ではだんだん見かけなくなった風景の一つではないでしょうか肩ぬぎで作業の進行が、鍬の高さでは固い土ころを砕く力の入れ具合が伝わるようです黙々と打ち込む篤農家の姿ですみのる:お百姓さんの意気軒昂とした田打姿が、実に具体的に写生されています句に力がありますね13■ 武者さんの画にはなりさう種の芋 むしゃさんのえにはなりさうたねのいも 註:武者さん・・は人名 とろうち:笑っちゃいましたこれって野菜とかがごろりと置いてあるのを見た時に、誰でも一度は考えることではないでしょうか一読してその種芋の色、形、風情までもがありありと見える気がします「武者さん」という呼びかけもいいですね武者小路実篤なんてフルネームだと、とても堅い感じがしますが、「武者さん」というと、とても親しみがあって、絵の雰囲気によくあってると思います。
私もこれからそう言おうかな今ならさしずめ絵手紙ブームですから、絵手紙の題になりさう、って感じですかなにか参考になりそうです遅足:先日じゃがいもを植えました種芋を扱っていても、俳句を作ろうという気はまったく湧きませんでしたこの句、読んでしまえば簡単に見えますがなかなか出来るものじゃないですねみのる:ユーモアの漂う親しみやすい絵画作品を描いた文学者、武者小路実篤の独特の淡彩画は多くの人に親しまれていますネットで探したのですが、実際の作品は見つけられませんでしたでも、この種芋のようなのが二つ三つ転がった画を見たような記憶があります武者小路実篤のことやその作品のことを知らないと観賞できないわけですが、逆に知っている人には、こういわれるだけで実に具体的に情景が連想出来ます具体的に伝えるために具体的な写生を・・・というのはあたりまえですが、具体的に伝える方法として、上手に省略して、あとは読者の連想に委ねる・・という手法もあるわけですねこのあたりの極意がのみこめると、随分作句に幅が出来ます14■ 芽ぐむかと大きな幹を撫でめぐり めぐむかとおおきなみきをなでめぐり 遅足:愛知県の奥三河に花祭と呼ばれる鎌倉時代から伝わる祭があります。
冬至を境によみがえってくる太陽信仰を背景に持つ冬の祭です山国の人達の春を待つ気持ちには、街に住む人には分からない切実さがあるようです命の再生する春句からも春を待ち望んでいた気持ちが強く伝わってきます撫でめぐりという表現には、なにか切羽詰ったものを感じますとろうち:大きな幹は、大地の生命力を吸い上げて小さな芽を咲かせる木というものを通じての、生命の輪廻をいとおしむ気持ちが「撫でめぐり」という言葉に表れているような気がしますこれはなんの木なんでしょうねちょっと具体的に絵を想像しきれないところがあるんですが 初凪:「芽ぐむかと」に作者のこの大きな木に対する愛情が感じられますもしかして、古木でもう寿命かと思う弱り方を見せて冬を越したのかもしれませんどこかに小さな芽吹きを見付けたいという希望が感じられます撫でめぐるという言葉にも命あるものに対する深い思いがありますね何の木でしょうね?きっとそれは読者の想像に委ねられているのではないでしょうか? よし女:初凪さんと同じように思いました謂れのある大きな木、大丈夫だろうかとみんなが心配している幹を撫でながら、ぐるりと廻って見られたのでしょうね 一尾:木の肌に触れることは気持ちが良いですね。
ついでに耳を当ててみると何か音が聞こえそうです「撫でめぐり」が木への期待を表わしています木に問うように撫でめぐることはしせんが、芽がぽろっと落ちることがありますあれー もう芽吹いているのだと知る時ですみのる:全ての葉を落として、枯れ木のようになった大樹が芽吹き始めた様子をご覧になって、自然の摂理に深くて感動しておられるのでしょう私達人間もまた神様の摂理によって生かされている大きな老樹の幹を撫でながら改めて生命の尊厳を深く思うそんな気分が感じられます15■ いくたびの春の思ひ出西行忌 いくたびのはるのおもひでさいぎょうきとろうち:西行というと、やはり思い出すのは「願はくば・・・」の和歌です桜が咲くたびに、ふと思い出す和歌ですそれと同じように、春が巡ってくるたびに思い出すいろいろの思い出があるのでしょう何か、静かで透き通るような、そこはかとない哀愁を含んだ、美しい句だと思います こう:西行庵の前に咲いていた、桜が目に浮かびます願われたように、花の季になくなられた西行法師その道を慕い、法師の歩まれた奥の細道を行かれた芭蕉翁青畝師も、慕わしく思い出されるのですね私も、この細い道を奥へ奥へと歩みつづけたい。
愛唱句になりますよし女:願はくは花のもとにて春死なむ・・・と詠んで、かねてより釈尊入滅の日に死ぬことを願った西行法師芭蕉翁の敬慕した旅の詩人青畝師も幾たびか法師ゆかりの地を訪れ、この和歌を口ずさまれたのでしょうそして、ご自分も願はくはと思われたのでしょうか何年か前、必死で歩いて、吉野奥の院の西行庵へ辿りついたことを思い出します奥千本の桜が盛りでした凡人でもこの和歌を口ずさんでいたのです春と西行忌と季重なりの感じもありますが、春が動かし難い季語でしょうね西行法師の歿日は後人の伝承であって、定かではないとも言いますし和歌の内容から言っても、春を切り離す事は出来ないと思いましたみのる:よし女解の通り、「春」と「桜」は西行法師の代名詞のような言葉ですね青畝師もご長寿で、永年、何度も西行ゆかりの各地での祭事に出席されるために旅をされ、いろんな思い出をお持ちだと思います西行もまた旅の人でしたから、その思いとが重なって一句をなした作品で、青畝師でなければこうは詠めない作品だと思いますさらりと詠んでおられますが、とても情の深さが感じられます16■ なつかしの濁世の雨や涅槃像 なつかしのじょくせのあめやねはんぞうとろうち:これはちょっと難しい。
「なつかし」という言葉は誰が感じているんでしょう「濁世」というのはイコール現世ととらえていいですよねそこに降る雨を「なつかし」と感じるのは、やはり「涅槃像」ってことになるんでしょうか私は最初、ほら、この世に降る雨だよ、懐かしいだろう?と呼びかけているのかなとも思ったんですでもそれじゃ「雨や」というより「雨ぞ」いうほうがぴったりしていると思うし・・・あんまり理屈で考えちゃいけませんね濁世とは言いながらも、この現世をいとおしいと思っている作者を感じますひろみ:むずかしいですもっと考えたほうがいいのかと思いましたが、書き込んでしまいます執着する心を良しとしないお釈迦様であったと思うのですが、そのお釈迦様が物である像として存在し、その像に未だに穢れたこの世の雨が降っているお釈迦様も像として在られて、今でもこの世の雨を感じておられるのかお釈迦様にとっては懐かしく思われるのかもしれませんがまだまだ、濁世、真っ只中ですよと、青畝氏は思ったのかなあと・・・みのる:季語は、涅槃像です季語にどんな意味があるかを調べると、「なつかしの・・」の意味がわかると思います頑張って!ひろみ:再挑戦です春の温かい雨が、釈迦入滅のときの弟子たち、鳥獣虫魚の涙のごとく、しっとりと万物に染み入るように降っている。
ただただ、涅槃像は慈愛の光を放ちながら、存在しているこんな解釈になりましたさっきと全然違うけど・・・とろうち:季語がどれなのか全く考えていませんでした反省!で、再挑戦なんですけど、やっぱり難しいですだいたいひろみさんと同じような解釈になりました雨は慈愛の雨、釈迦入滅に対する万物の涙を表しているように思いますでもやっぱり「なつかしの」がどういうふうに働いているのかというと、よく分からないうむむむむ・・・みすず:現代語の<なつかしい>が懐旧の情を表すのに対して、<なつかし>という古語は、現在の相手の人柄のやさしさに、こちらから慕い寄って行きたい感じ、とありますそうなると、<なつかしの>は、濁世の雨にかかるのでしょうかあとは、ひろみさん、とろうちさんの解釈と同じです青畝先生は、お釈迦様の入滅の御姿の像(画)を見て、やはらかな春の雨が、まるでお釈迦様を慕っている(万物の涙の)ようであることよ・・・と思われたのでしょうか涅槃と濁世・・・対称的でありながら、雨がそれをしっとりと結び付けている、そんな風に感じました美しい句だと思いますよし女:ここ二三年風邪を引かないと安心していたら、立派に引いてしまいました。
思考も感性も停止状態でしたが、ひろみさん、とろうちさんさんが頑張っておられるし、みすずさんの解釈を読ませていただいたりして、古語辞典を引いてみましたなつかしの古語は・・そばにおりたい、寄り添いたいという心情とありました京都東福寺の涅槃像でしょうかおりしも春の雨、青畝先生のお気持ちがこの雨のようなのかしらと思いました世界三大聖人は釈迦とキリストと孔子だと思いますが、涅槃像はクリスチャンの青畝師の心に深く通じるものがあると思いますみのる:大きな涅槃図に描かれた寝釈迦は、春の涅槃会の時期にだけ一般に公開されます普段は、太い軸に巻き込まれて宝物殿とかに大切に保管されれているんですねですから折からの雨は、絵の中の寝釈迦さまにとっては、1年ぶりの懐かしい雨ということでしょうこの頃にはしとしととした春の雨が良く降りますそうした、涅槃の頃のなんともいえない季節感が憎らしいほど見事に写生されています青畝先生は涅槃の句を沢山作っておられ、どれも有名です*大いなる幅解けて来て涅槃変(涅槃図のこと)*葛城の山懐に寝釈迦かな*一の字に遠目に涅槃したまへる*ねはん図の混んで生きとし生けるもの17■ 芽柳に焦都やはらぎそめむとす めやなぎにせうとやはらぎそめむとす初凪:これは戦後に詠まれた御句でしょうか?今日通勤途中に中学校の柳がどの枝も残らず芽吹いて小雨に緑が美しく、また若々しい色に思えました。
春の息吹を感じました柳のたおやかな枝はある意味芯の強さも感じます焦土と化した都も春を迎え柳が芽吹くこのごろ、やっと少しだけ凄惨な景色が和らいで来た、という風に鑑賞しました遅足:私は昭和18年生まれ、敗戦後は豊橋にいたので、句のような都は知りませんでも、軍都だった豊橋も空襲をうけ、だいぶ遅くまで、あちこちに焼け跡が残っていました父や母は、とにかく戦争が終わってほっとしたと話していましたから、この句の気分だったのでしょうイラクで戦争が始まろうとしていますが、そんな時、この句に接すると平和への思いが、ますます強くなりますとろうち:春になると色々なものの芽が芽吹きますが、柳の芽はひときわみずみずしく感じます一面の焼け野原の荒涼とした風景にある芽柳力強さというよりは優しさを感じさせる句ですひろみ:東京大空襲なのでしょうか焼夷弾で焼け野原となった東京の柳の木の幹は焦げてはいるが柳の芽は、確かに芽吹き、風に揺れていた打ちひしがれたり、悔やんだりしている人が大半であったと思うのですが、希望を感じる句だと思いました一尾:「銀座の柳の下で 待つは君ひとり」のあの東京ラプソディーが流れてくるようです焦土と化した東京の復興を銀座の柳から感じ取られたのでしょう。
いよいよ復興も始まらんとする春、人々も心に落ち着きを取り戻しはじめましたみのる:初凪さんのお見通しの通り、昭和21年、終戦間もない頃の作品です俳人教会発行の自註句集に、青畝師の解説が載っていたので、転載しておきましょう>戦禍に廃墟となった年を焦都という造語である>柳も黒焼だと思った根が生きていたので芽をだした>私も柳によって復興の元気がわいたなんと簡潔で情のある解説でしょう先生の文章はいつもこうなのです多くを語らず、深い思いを伝える俳句も文章も同じなんですね18■ 目刺の目けむりを吐いてもう焦げぬ めざしのめけむりをはいてもうこげぬひろみ:私は、目刺焼くの季語が好きです今の職場が下町にあるせいか、お昼になると、どこからともなく、目刺や鯵の干物やクサヤを焼く匂いが漂ってきます下町生まれではありませんが、郷愁を感じますこの句は、今まさに焼けている目刺が表現されていると思いますしかも、じゅうじゅうとぱちぱちと音が聞こえてきますご飯が炊ける匂いまでするような・・・とても美味しい句です私のストーリーは、下町のぐうたら亭主が奥さんがなかなか帰ってこないのに業を煮やして、目刺を焼き始め、ちょっと目を放している隙に目刺が焦げてしまった。
こんちきしょう、俺の目も煙で沁みるじゃねえか!なんて、ぶつぶつ言ってるお父さんが主人公ですとろうち:目刺しだから目玉はないんですよね目のあった穴から、最初のうちはもうもうと煙が出てくるけど、そのうち焼けきってしまって煙も出ないそんな光景を想像しましたひろみさんのコメント楽しいですご自身で目刺しを焼くなんて、なかなか見上げたおとーさんだと思いますよ ひろみ:とろうちさんのコメントを見て、ハッと気づきましたぐうたら亭主は、訂正いたします妻思いの優しいおとーさんに、変更です!青畝氏のお句なんですからね!うわー冷や汗・・・汗、汗、汗私は、仕事場の場所柄、こういうおとーさんを良く知っていますのでつい、映像として浮かんでしまいましたよし女:目刺を焼くと目やひれなど、身のないところが焦げますね目が焦げてけむりを吐き始めると、焼け具合も頃合で、お皿に乗せるもう焦げないのですよねこのお句、読み返して味わっている。