三省堂 大辞林だて-まさむね 【伊達政宗】(1567-1636) 安土桃山・江戸初期の武将仙台藩祖輝宗の長男幼名、梵天丸、長じて藤次郎隻眼・坚决の故をもって独眼竜と称される出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した関ヶ原の戦いでは徳川方戦後、仙台藩六二万石を領した家臣支倉常長をローマに派遣和歌・茶道に通じ、桃山文化を仙台に移した辞書の索引用語の索引ランキング戦国武将覚書伊達政宗(だて まさむね) 1567~1636○梵天丸 藤次郎 美作守 越前守 陸奥守 左京大夫 侍従 右近衛権少将 参議 中納言◇父:伊達輝宗 室:田村清顕女、飯坂宗康女、塙団右衛門女、柴田宗義女、芝多常弘女、多田吉廣女、村上内膳正重女、高田次郎右衛門女? 子:伊達秀宗、陸奥守忠宗、飯坂宗清、亘理宗根?、伊達三河守宗泰、宗綱、宗信、右衛門尉宗高、松竹丸、宗実、兵部大輔宗勝 出羽・伊達氏第17代当主米沢城主幼少期痘痕で片目を失明している1584年若干18歳にて家督を継ぐが、翌年二本松義継により父輝宗を拉致され、これを失うその後勢力を拡大して、1589年には会津・蘆名氏を摺上原合戦で破り、近隣諸家を尽く勢力下に置いた。
しかし、羽柴秀吉の小田原征伐に際してこれに参陣し、会津等所領の大半を失う秀吉死後は、徳川家康に靠近し、関ヶ原合戦では越後・上杉氏と戦うが、一方で一揆を扇動した疑いを掛けられ、詰問されている 辞書の索引用語の索引ランキングウィキペディア伊達政宗出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (/07/07 07:29 UTC 版)この項目では、伊達家第17代当主(仙台藩初代藩主)・伊達藤次郎政宗について説明しています · 伊達家第9代当主・伊達大膳大夫政宗については「伊達政宗 (大膳大夫)」をご覧ください · 伊達藤次郎政宗に因んで命名された小惑星については「伊達政宗 (小惑星)」をご覧ください 凡例伊達政宗時代戦国時代から江戸時代前期生誕永禄8月3日(1567年9月5日)死没寛永5月24日(1636年6月27日)更名梵天丸(幼名)、政宗別名藤次郎(通称) ほか諡号貞山神号武振彦命戒名瑞巌寺殿貞山禅利大居士墓所瑞鳳殿、青葉神社官位従五位下・左京大夫、侍従、越前守、従四位下・右近衛権少将、陸奥守、正四位下・参議、従三位、権中納言、贈従二位幕府室町幕府:陸奥国守護主君豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光藩陸奥国仙台藩主氏族伊達氏父母父:伊達輝宗、母:義姫(最上義守娘)兄弟政宗、小次郎(政道)、秀雄、千子姫妻正室:愛姫側室:新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)勝女姫、妙伴、朝鮮人女子某子秀宗、忠宗、宗清、宗泰、宗綱、宗信、宗高、竹松丸、宗実、宗勝、亘理宗根、五郎八姫、牟宇姫、岑姫、千菊姫、津多 表・話・編・歴 伊達政宗騎馬像(昭和5年小室達作、青葉山公園)この銅像は政宗の遺言に従い、独眼ではなく両眼を開いたものになっている。
伊達 政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名陸奥仙台藩の初代藩主本姓は藤原氏家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから、後世には「独眼竜」と称されているまた、天下取りを狙い続けた野心の男として(後述の#政宗の野望を参照)、豪華絢爛を好む戦国屈指の教養人として知られている目次· 1 生涯 o 1.1 幼年期 o 1.2 家督相続から摺上原の戦いまで o 1.3 豊臣秀吉との対立 o 1.4 関ヶ原合戦と最上陣 o 1.5 仙台開府と慶長遣欧使節 o 1.6 大坂の役 o 1.7 晩年 § 1.7.1 遺訓 · 2 墓所 · 3 居城 · 4 政宗の野望 · 5 逸話 o 5.1 出生など o 5.2 妻・子供など o 5.3 処世など o 5.4 徳川家との関係 o 5.5 趣向など o 5.6 その他 · 6 官職位階履歴 · 7 別名 · 8 重要家臣団 · 9 系譜 · 10 伊達政宗を扱った作品 o 10.1 映像作品等 o 10.2 文学作品等 · 11 関連項目 · 12 史料 · 13 脚注 · 14 外部リンク 生涯幼年期家督相続から摺上原の戦いまで天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。
天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める天正(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当时、若年を理由に解雇を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった小手森城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却し、政宗に対抗しようとした天正(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非道な一面を見せた豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れたこれは、近隣諸国への見せしめであるしかし、一方で政宗は後年、戦略旳見地から定綱を家臣の列に加えている大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになったところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた義継を城門まで見送りに行った所を拉致される政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻って一行を追跡し、輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという。
この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説あるその後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも二本松城を包囲し、二本松氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた数の上で5分の1如下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭良直を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利を収めた(人取橋の戦い)政宗は更なる侵攻を行い、天正(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地区まで支配下に置く関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦严禁令)を発令したしかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵御、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが母・義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
天正(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦うこの戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた蘆名義広は1万5000の兵を率い、政宗も2万1000を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いたこの戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵余りを討ち取ったという黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配したさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼしたこの戦いと前後して、白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属したこのとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国旳にも屈指の領国規模を築いたこれに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった[1][2][3]豊臣秀吉との対立この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、政宗は秀吉と鋭く対立した秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられており、政宗はこれを黙殺していた政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていた。
しかし、天正(1590年)、秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたこの行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる政宗が秀吉に服属したため、政宗と同盟を結んでいた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城、会津・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行ったここに秀吉の「日本統一」が達成された参陣前に母親に毒殺されそうになり、母親を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したという説が通説となっているが、毒殺創作説も存在する母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、4年後に実家の兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)[4]翌天正(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を扇動していた嫌疑をかけられるこれは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。
また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていたそこで政宗は上洛一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた文禄2年(1593年)秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島へ渡るまた、普請事業なども行う朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたというこれ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[5]、と伝えられるこれは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる[要出典]文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した[6]。
秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終旳には無関係であるとされ連座の難を逃れた秀吉の死後、五大老・徳川家康と政宗は秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた関ヶ原合戦と最上陣豊臣秀吉死後の慶長5年(16)に家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して、7月25日に上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かったこの際、家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。
これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参与が是非とも必要であったことから、100万石のお墨付きを与え、東軍参与を促したとされる同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)[7]9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた方略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした結果旳に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
仙台開府と慶長遣欧使節ローマ教皇から政宗にあてられた書簡慶長6年(16)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移すここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である仙台城は山城で天然の地形を运用した防御であるものの、仙台の城下町は全面旳な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長(16)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)大坂の役慶長(16)の大坂の役(夏の陣)では大和口方面軍の後見役として参与し、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の局限性や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断ったこのため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と讥笑したというなお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返したしかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった[8]翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにする(6日とする説もある)神保隊は味方であることを必死に訴えたが、政宗の軍勢は攻撃をやめず神保隊は全滅し相茂自身も討ち死にすることになったという神保家の遺臣は水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張して諸大名の笑いものになった(薩藩旧記巻六)。
しかし、幕府は伊達家を不問とし記録(寛政重修諸家譜)にも神保相茂は「奮戦して死す」とのみ記述されるこの事件は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説も書かれている(詳細は神保相茂の項を参照)また、味方討ちは5月7日の天王寺の戦いではなく、5月6日の道明寺の戦いの際であるとの説もあり、前述のように道明寺の戦いでは水野家家中3人を撃ち殺しているので7日説では2日連続で味方討ちを行ったことになるが、6日説であれば水野隊も銃撃に巻き込んだ也许性が高いことになる晩年伊達政宗 平和像世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した北上川水系の流域を整顿し開拓、現代まで続く穀倉地帯としたこの結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した文化旳には上方の文化を積極旳に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴旳な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残したさらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。
これにより北上川流域水運を通じ石巻から江戸へ東廻り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えるが、寛永(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始めるしかし前年より始まった参勤交代制に従い、同年5月1日には江戸城で将軍家光に謁見病をおして参府した政宗に感谢した家光は、その後しばしば政宗の居留する桜田の伊達家上屋敷に見舞いのため老中を派遣した5月21日政宗危篤この報を受けた家光は直ちに自ら伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った感谢した政宗は髪を整え、裃を来て3人の老中に身体を支えられながら家光を迎えたという5月24日早朝死去享年70(満68歳没)死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。
殉死者は家臣15名、陪臣5名「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発したこれは御三家以外で異例のことであった辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)遺訓· 一、仁に過ぐれば弱くなる義に過ぐれば固くなる礼に過ぐれば諂(へつらい)となる智に過ぐれば嘘を吐く信に過ぐれば損をする · 一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし · 一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ · 一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし 墓所墓所:仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永(1637年)10月に建立された昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。
再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術旳調査から身長は159.4cm(当時の平均旳身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した歯槽膿漏により上あごの左右の犬歯以外はすべて抜け落ちていた天正(1589年)に米沢で落馬し骨折した時のものと思われる、左腓骨の骨折の跡も見つかった[9]また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている[10]表・話・編・歴伊達宗家歴代当主 平安末期 - 戦国末期 朝宗 - 宗村 - 義広 - 政依 - 宗綱 - 基宗 - 行朝 - 宗遠 - 政宗 - 氏宗 - 持宗 - 成宗 - 尚宗 - 稙宗 - 晴宗 - 輝宗 陸奥仙台藩主(松平陸奥守家) 政宗 - 忠宗 - 綱宗 - 綱村 - 吉村 - 宗村 - 重村 - 斉村 - 周宗 - 斉宗 - 斉義 - 斉邦 - 慶邦 - 宗基 明治 - 現在 邦宗 - 興宗 - 貞宗 - 泰宗 表・話・編・歴伊達氏仙台藩初代藩主 (1600-1636) 仙台藩主 伊達政宗1600-1636 | 伊達忠宗1636-1658 | 伊達綱宗1658-1660 | 伊達綱村1660-1703 | 伊達吉村1703-1743 | 伊達宗村1743-1756 | 伊達重村1756-1790 | 伊達斉村1790-1796 | 伊達周宗1796-1809(1812) | 伊達斉宗1812(1809)-1819 | 伊達斉義1819-1827 | 伊達斉邦1827-1841 | 伊達慶邦1841-1868 | 伊達宗基1868-1869 | 版籍奉還 仙台藩知事 伊達宗基1869-1870 | 伊達宗敦1870-1871 | 廃藩置県 。